そもそも真田丸(出丸)って何? 大河ドラマ『真田丸』戦国軍事考証担当者が徹底解説!
戦国合戦の真実を『図解 戦国の城がいちばんよくわかる本』の著者であり、大河ドラマ『真田丸』の戦国軍事考証を担当する西股総生さんが解説します!
歴史上、攻める側にとってもっとも面倒な存在だった出丸が、大坂冬の陣
(1614年・慶長19)における真田丸だ。
大坂城はもともと上町台地の端に築かれていて、南側は城と同じような高さの台地がつづいている。この方向がどうしても攻められやすいので、城の南にある谷を利用して、惣構をつくってあった。豊臣方の真田信繁は徳川方との戦いに備え、この惣構の外側に出丸を築いて、長宗我部盛親とともにおよそ5000の兵で守備することとなった。これが、真田丸だ。
なにせ、大急ぎで戦いに備えなくてはならないのだから、大坂城本体のように石垣を積んだり、立派な櫓を建てたりする余裕などない。この真田丸は、戦国時代さながらに空堀を掘り、土塁を積み上げたものとなった。
ところで、大坂冬の陣は関ヶ原合戦から14年あとに起きたものだから、若い侍や兵士たちの中には、実戦を経験したことのない者も多かった。ましてや、小田原の役からは24年もたっているわけだから、土の城を実際に攻めたことがない。
おそらく、徳川方の若い武将や侍たちは、石垣も立派な櫓もない、にわかづくりの土の出丸など、ひとひねりで攻め落としてくれよう、と意気ごんだにちがいない。
ところが、空堀と土塁でできた真田丸は、思いのほか手ごわかった。おまけに、信繁はたくさんの鉄砲を用意して待ちかまえていたから、攻め寄せた徳川方の前田・越前松平・井伊などの諸隊は、空堀も土塁も越えられないまま、バタバタと撃ち倒されていった。
さらに信繁は、敵が浮き足だったところを見はからって、出丸から逆襲部隊をくりだした。これにより、徳川方の諸隊は大混乱におちいって惨敗してしまった。
こうして真田丸は、徳川方にとって目の上のタンコブのような存在となった。真田丸をスルーして惣構に攻めかかると、真田丸からくり出す逆襲部隊によって、横あいをつかれてしまう。かといって、真田丸をじっくり攻略しようとすれば、今度は惣構からくり出した逆襲部隊に、後ろを取られてしまう。
このように、敵の横あいをつくことのできる場所に築いて、敵に自由な行動を取らせないようにする陣地を、専門用語で「側面陣地」という。側面陣地は、古今洋の東西を問わず、戦いにおいては有効なセオリーだ。
信繁は、側面陣地が有効であるというセオリーを、ちゃんとわかっていた。別に、孤立無援の要塞で華々しく戦おうとしていたわけではないのである。
だから、真田丸は力攻めで一気に落とさなくてはならないのだけれど、たくさんの鉄砲を備えた真田丸は簡単には落ちない。結局、徳川方は最後まで真田丸のある側からは攻めこむことができなかったのだ。
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